20190411

「冷笑的な私」はどこから?ボランティアの歴史からたどる ー 東京大学・仁平典宏准教授【前編】

昨年、メディアを賑わせた東京オリンピックのボランティア動員問題。ボランティアにはたとえ本人がそれを良心で行なっているとしても、その動機や結果に批判や冷笑の目が向けられるジレンマがつきまとう。似たことはボランティアだけではなく、寄付などのあらゆる慈善活動に見いだせる。今回インタビューする東京大学・仁平典宏准教授は著書『「ボランティア」の誕生と終焉 〈贈与のパラドックス〉の知識社会学』(名古屋大学出版会、2011年)で、日本のボランティアの言説の歴史を振り返り、そこに共通するあるパターンを見出した。ボランティアが抱えるジレンマを解きほぐすヒントがあるかもしれないと思い、お話を伺った。 前編では、仁平准教授がボランティアの歴史を研究するにいたった経緯と、戦中までのボランティア言説の歴史についてご紹介する。 ボランティアの歴史を研究するきっかけ ——はじめに先生がボランティアの歴史について研究しようと思った理由について教えてください。 私の研究の出発点は、ボランティア活動を頑張って行う人を冷笑的に見ていた大学時代の自分自身にあります。当時は問題意識も目的もなく遊ぶだけのダメ大学生で、社会活動に熱心な同級生を理解できないと思っていました。そんな事もあって、学部のフィールドワークのゼミで、先生から「魚が水を捉えられないのと同じで自明視された世界を捉えることは実は難しい。だから、フィールドワークでは自分にとって一番遠くて異文化だと思うところに行け」と言われたとき、福祉施設でボランティア活動を頑張っている同世代を調査対象に選びました。意識が高く自己犠牲精神に溢れたボランティアこそが、自分にとっての異文化だと思ったからです。 しかし、いざフィールドワークをしてみると、その想定が誤っていたことに気づきました。ボランティアをしていたのは聖人君子ではなく、仲間とのバカ話や恋愛話が好きな「普通」の若者たちでした。その舞台が福祉施設のボランティア活動というだけです。ボランティアを募集する施設側もそれを理解し、「社会問題に取り組もう」などと大上段に構えることはせず、ボランティア自身の「楽しさ」と活動が両立するようにさまざまな仕掛けを作っていました。現在のボランティア活動は私的な関心・効用(楽しさ)と矛盾せず、むしろそれを織り込む形で成立しているのではないかというのが、卒論の中心的な仮説になりまし

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