来日直前! 韓国クラブ・シーンをリードしてきたDJソウルスケープが『Sound Of Seoul』に込めた思いとは? | Tokyo Sabroso
数々のDJ諸氏の尽力により、ここ数年日本において「和モノ」が大きな盛り上がりを見せていることはここで強調するまでもないだろうが、そうした動きと共鳴するかのように、アジア各地で自国の音楽文化を捉え直そうという流れが活発になりつつあることは案外ご存じない方も多いかもしれない。そこでいう「自国の音楽文化」とは、これまでワールドミュージック文脈で紹介されてきたような土着的かつ民族音楽的要素の強いものではなく、むしろそうした文脈からは見過ごされがちな、たとえばディスコ〜ブギの要素の入った7、80年代の歌謡曲であったり、もしくは日本ではシティポップと呼ばれるような洗練されたポップスであったりする。そして、そうしたレコードにふたたび日の目をあてようとするDJの多くが、ヒップホップやハウス/テクノなどを経由して自分の足元を見つめ直すようになったことはとりわけ重要だ(その点も「和モノ」を提唱する日本人DJと共通している)。もしも仮に「和モノ」と呼応する形で「韓モノ」なるものが存在するのであれば、その先駆者は間違いなくDJソウルスケープである。彼は韓国ヒップホップ界の先駆者でもあり、日本のヒップホップ勢ともたびたび強い繋がりを持ってきた。それにもかかわらず、日本においては一部の熱狂的ファン以外に彼の名前が知られてこなかったことは少々意外にも思える。常にケモノ道を突き進み、シーンをリードしてきたDJソウルスケープ。彼がこれまでどのようなキャリアを歩んできたのか、来日を前にして駆け足で振り返ってみたい。Text by HAJIME OISHI
ソウルスケープは1979年、ソウル生まれ(1歳から5歳までは香港で暮らしていたという)。父親は熱心なソウル・ミュージック愛好家で、自宅ではつねに音楽が流れていた。また、ハービー・ハンコック&グランドミキサーDXTがグラミー賞の授賞式で披露した“Rockit”のパフォーマンスに衝撃を受けたのもこの頃。それはAKFN(現AFN Korea。1957年に放送を開始したVHFチャンネル)から流れてきたもので、幼少時代のソウルスケープにとってAKFNはアメリカ文化と直接出会うことのできる貴重なメディアとなった。 DJを始めたのは15歳。当初はDMCのヴィデオを見ながら自宅でトレーニングの日々を送っていたが、97年、シンチョン(新村)に韓国ヒップホップ・シー
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